ashita text

野蛮に現在のテキストを積み重ね

ときめくかときめかないかがわからない「不明なモノ」の輪廻

 Netflix『KONMARI〜人生がときめく片づけの魔法〜』を見た先週末、すぐに部屋の書籍を整理した。自宅が広いわけではないので、番組になるほどの長期間に渡る整理整頓でなく、思い立って2〜3時間のお手軽な片づけだ。だから、片づけ以前と以降で部屋が広く感じるようなスッキリさはない。むしろ適正な書籍冊数になっているとほんの少し思うくらいだ。

 処分する書籍がときめかなかったのかというとその通りかもしれない。でも、小説や技術書、マンガ、自己啓発書を私はどうして買ったのか???? 理由を思い出せず、記憶にございませんという「不明さ」をときめくかときめかないのどちらに分類するかといえば「ときめかない」になってしまうだけなのだ。恥ずかしさで覚えていないだけなのか単純に年齢のせいで覚えていないだけなのか。はっきり黒歴史とまではいかないけれども(自己啓発書は黒に近いが)、なぜ、どうして、それを入手したのか「不明の書籍」が10冊弱。まとまった数なら古書店へ持っていくけれど、それほどでもないので来週の資源ゴミに出すしかない。

 黒歴史の手前にある「ときめき不明」ゾーンは書籍ではないものにも宿っている。とくにデータはヤバい。メールやLINE、写真&ムービーなどのデジタルデータ方面は「不明」だらけ。データを整理しようにも「不明な」数が膨大すぎて(あるいはときめかないアイテムばかりという自分自身のこれまでの行動・思考のやるせなさを感じてしまい?)手を付ける勇気がない。しかし死後もデータは残る。未来いつの日か、その不明なデータたちが自分自身そのものに化けてしまう。ならばいっそのこと、すべて消去してしまえばいいのかもしれないが消したところで、その空き容量に新しい「不明なデータ」が埋まっていくだけ……。これはときめかない。

 どうでもいいことを
どうでもいい言葉で
どうでもいいタイミングで忘却する
日常会話みたいに
部屋にあるモノを
捨てる/捨てないは別として
どうでもよく感じるのがいちばんいいのかもしれない
しかし簡単にはどうでもよくはならないのだった

 

ときめかない日常。「不明のデータ」の輪廻は続く。
片づける力(魔法ではなく能力)は人類にとって役に立っているのだろうか。