ashita text

野蛮に現在のテキストを積み重ね

データは機械に憑依しているのか −書籍『作って動かすALife』、縄文 展−

 機械(PC、スマホ)はどれくらいアタマがいいのか。PCやスマホを使ってすることといえばメールやSNSの対人間どうしのやりとりツール、ほかに原稿を書く、資料をまとめる。ほぼツールとして使っているだけなので、たとえ能力があったとしても、こちらの想像の範囲内での能力しか見えない。使っている側としては機械は紙のノートといった道具の延長でしかない。音声入力や顔認識、AR、AIなど、それなりの技術に驚くことはあるが、それは想像を超えたなにかを提案してくれるのかはこれからだ。
 想像の崖から降りた場所にある魅力。機械にとっての桃源郷はどこにあるのか。ムーアの法則のその先にあるのだろうか。機械の歴史は地球や人類と比べたらまだ始まったばかりで歴史が繰り返すというよりも新たに作られていく段階だ。

 時間軸で考えると、そもそも現在のフォーマット、技術がそのまま続くのかどうも怪しくなる。東京国立博物館で開催されている「縄文」展では土偶や土器、装飾品などが数多く紹介されているが、これらの展示物は約1万年〜3000年前は最先端の技術、道具(機械)でもあったのだ。技術はどこへ向かうのか? 機械はもっとアタマがよくなるのか。その手がかりとなりそうな「ALIFE」に興味がある。

 機械ではなく自立した人工体としての「ALIFE」。そこには技術と合わせて生命としての美学や情報(データ)がある。関係性としての生命。データとしての生命が機械より先に進化してしまうことだって考えられるのだ。データのモードによって組み立てられる人工生命。計算と感情のセッション。解像度ではなく、データがそこにある。存在するデータと付随するノイズの美しさ。
 データは人工生命に憑依しているのだろうか。データもいつかは死ぬ。電気がなければ、対応するフォーマットがなければデータは死ぬ。データの輪廻転生で新しいものを作られるとしたら、その連なりが斑で美しければいいのではないか。

データとしての生命体が進化するときの計算式の向こう側にある美(ALIFE的)。
これから死ぬかもしれない剥き出しのデータとしての残像のような美(ビジュアルと音楽)。

 

  美がいつしか生活風俗(データ民俗学)として定着すれば、夏の盆にディスプレー上の送り火やネットワークへのデータ精霊流し、古いデータが胡瓜ではなくSSDに乗ってやってくるという風習がスタートするかも。

 

書籍『作って動かすALIFE』
著 岡瑞起、池上高志、ドミニク・チェン、青木竜太、丸山典宏
オライリー・ジャパン

縄文ー1万年の美の鼓動
会期 2018年7月3日〜9月2日
会場 東京国立博物館平成館

Ryoji Ikeda concert pieces
開催日時 2018年7月27日〜7月29日(オールナイト)
会場 スパイラルホール