現地集合の現地がわからないので集まることができない。そもそも誰も現地を知らなかったらどうしようか、途方に暮れるしかない。でも現地はどこかにあるはずだ。誰も知らなくても、とにかく現地へ向かおう。
こうして現地と言っているのが「死後の世界」や「美しさ」だとしたら。当然、位置情報は誰も知らない。たぶんこのあたりにあるのではと想像するだけ。誰も知らないため、あらゆるところに「私にとっての現地」があって、それぞれの人たちが仲間たちと楽しく現地(と称している地点)で落ち着いてる。それは正しくて同時に間違っている。
アートを前にした時の興味深さは、このふわふわっとした現地感と同じなのではないか。この場所が現地だとするための作品やステイトメント。それは現地の地形や気候がいかに素晴らしいかということと同じだ。そして地図上の現地の位置も作品に影響されていく。ではどこに集まればいいのか。複数の現地を渡り歩く。
現地を探す地図があっても、地図の範囲外に現地があるのかもしれない。地図がないから現地がないわけじゃない。たとえ想像力に範囲があったとしても、範囲の外側にも想像してほしい何かはある。範囲の境界線上に地図の端っこに「アウトサイダーアート」の現地がある。
地図だって頼りになるかどうか……。地図にはない現地を探すため、歩き回るだけだ。そうしてウロウロして、以前に居た場所に戻ってきただけだとしても、周辺の地形や人の集まりがわかって場所に対する見方は変わる。歩きと想像。
でも、結局のところ集まる現地がどこかは誰も知らない。
防潮扉の一部に描かれた「バンクシー作品らしきネズミの絵」の一時公開
期間 2019年4月25日〜5月8日
場所 東京都庁第一本庁舎 2階北側
http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2019/04/19/09.html