ashita text

野蛮に現在のテキストを積み重ね

暇つぶしの目玉

 自宅で食事(あるいは晩酌)をするとき、テレビを見ながらの「ながら食い」は当たり前のことになって閉まっている。しかし、スマホを見ながらはなぜかしたことがない。習慣化したものは簡単に変えることができないという話しではなく、単純に右手に箸、左手で茶碗やコップを持っていたらスマホを持つタイミングがないだけで、千手観音みたいに手がもっとあればスマホを見るのは確実だ。手持ち無沙汰みたいに視線無沙汰になるのがちょっと怖い。視線が定まらないと落ち着かない。じっと料理を見ているのはキツい。

 視線無沙汰は外食時でもそうだ。以前は書籍(雑誌)で視線を安定させていたのが、いつしかスマホに変わっていった。なにか動画を見ていないと、文字を見ていないと落ち着かない。スマホを見ずに店内を見回すのは恥ずかしい。結局、目の、目玉の寂しさを紛らわせるためなのか、それともスマホ依存しているのか。よく分からないがとにかく時間を埋めるための目玉遊戯はいまも継続中だ。

 ところで食事以外のときの目玉はどうしているのだろうか。起きてから寝るまで、なにかを見ているのか。スマートフォンの画面以外ではどこを見てる? PCやテレビといった相変わらずの液晶画面が多いのか。青空を見たり、他人の顔を見たりするのは一日の視線でいうと何%くらいだろう。なにかというとスマホに落ち着くような気がするが、スマホで50%を超えてしまってるのか?

 そもそも、なぜそれほどまでにスマホを見るのか。身近な画面で情報や映像が常にたれ流されているからなのか? 次なにが起こるかという期待感。情報の射幸性。それなら往来する人を見つめ、次は誰が来るのかという偶然性でも満足ということになるが、はたしてそうなのか。視線の先にあるのはフィクションという安心感が必要なのかもしれない。どんなに見ていても、それが嫌な視線でも、ほほえましい視線でも、スマホは受け止めてくれる。対人間の場合は目も相手に合わせて対応しなければいけない。

 

今日も眼球は激しく動いている。
画面サイズの範囲内で上下左右に忙しく。

 

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