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野蛮に現在のテキストを積み重ね

流れだけが残ったので流されていた -「マルセル・デュシャン」と「寅さん」−

流されていた

ブログをアップしていない2ヵ月弱、Netflixで『男はつらいよ』シリーズを毎日1本づつ見続けていたのだった。第1作から『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』までの合計49本を毎日1本、最初は順番に、2往復目はランダム気ままに見ていた。寅さんさくらおいちゃんおばちゃん御前様。世界観はわかっているけれども、物語の太さ加減は時空を超えて居心地がいい。そのまま気づくと、物語の黒潮に流されて、日常生活でもいつの間にか違う場所(意識)に流されていた。どこかに寅さんがいるような、あるいはここは葛飾区柴又なのではという内側に入ってしまったような感覚。

その流れに乗っていいのかどうか、少し躊躇するときもある。流れはどこから来るかわからない。途中で止まる可能性だってある。だから流されるのを恐れて、ぐるぐる同じ所を小さく回っているのが好ましいのかもしれない。

流れに対して、見るか、乗るか、どうするか。それを含めて物語なのだ。

 

流れだけが残る

何回も見たということでは、デュシャンの作品もそうだ。『自転車の車輪』や『泉』は、海外の美術館で何回か鑑賞している。そして2018年、東京国立博物館で開催されていた『マルセル・デュシャンと日本美術』展で作品を見た。
展示はデュシャンの人生(物語)を作品でたどっていく流れになっていた。たくさんの入場者の列の流れに入り込んで、油彩画などの作品を丁寧に見て回る。

こうして美術に対する物語として、源流を知っておいた方がいいのか? それとも知らない方がいいのか? ふと考えながら流されていた。もちろん知っておいた方がいいのかもしれないが、ならば時代(芸術運動の流れや世界情勢)や物語(作品のストーリー? それとも作家の人生の物語?)等どこから知っておいた方がいいのか。

関係なく、現在の2018年という時間点から作品を眺めることだってできる。知識だけでなく自分がそこに居た(見た、聞いた)という自分と作品の距離がどうしたってある。

 

流れの先に淀んでいる(魅力的な)場所が

映画のエンドロールが終わっても。作品を見終わっても、何かは続いている。それは物語ではないかもしれない。あの作品に流れる時間や空間の一瞬が自分に焼きついているだけかもしれない。海水浴帰りのような心地よい疲れがある。

そして寅さんも来年2019年に新作が公開される。

物語が続いていたのだ。

デュシャンの先にも物語は延々続いているのだろう。

まだ物語が発生しない場所にも、明日には物語で覆いつくされる。
それがポジティブであれネガティブであれオカルトであれ科学的であれ、覆われていく。覆ってあふれてたまる。どこかたまってしまい淀んだ場所があるかもしれない。
淀んだエリアがいちばん魅力的な場所だったらどうしようか。

 

マルセル・デュシャンと日本美術
会期 2018年10月2日〜12月9日
会場 東京国立博物館 平成館

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マルセル・デュシャンと日本美術 展(東京国立博物館)

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マルセル・デュシャンと日本美術展(東京国立博物館)