このことは知っているだろうと相手に話す際、慎重に話を進めないとお互いイメージしていた内容がまったく違うハプニングが発生してしまう。つい最近もそうだった。正月にニューヨークへ行ってきたのだけれど、ニューヨークのイメージをどこに置くのかですれ違いが起きた。ブロードウェー、ソーホー、セントラルパーク、そして自由の女神や摩天楼、あるいは行き交う人びとのイメージ。いつどこのなにを背景にしているのかで文脈が微妙に違ってくる。だからなるべく細かく描写説明したり、違うイメージを浮かべてるなと思ったら補正をかけていくようにしていたのだが、しまいにはもう相手の中にあるニューヨークとして話していたり…。
補正をかけたところで、相手のイメージをすべて塗りつぶせるわけではない(相手が自分の認識を崩されてもオーケーな開放的な人なら別だけど)のは仕方ない。とはいえ、行ったことないけれども知識として消化・血肉化してしまっているという人を崩していくのは手強い。他人の話よりも書籍や映像、ネットの情報のほうに確かさがあるように思っているような節があって、「××らしいじゃない。本当なの」と自分自身の答え合わせを始めてしまう。それが○か×か判断するのは本人、本人次第でどちらにでもなる。こちらの話は「※これは個人の感想です」とテロップをつけて聞いているようなものだ。双方向のつもりでいて深いところでは一方通行だったという会話が続く。途中で気づいても、最後まで「つもり」を続けなくては全体が成立しない。
もちろん相手ではなく自分も「つもり」のイメージを持ち続けている。その「つもり」であっても、一部を知っている「つもり」というイメージの空白部分を持っていないと動かすことは難しい。そしてそれは絵画や彫刻に対してもそうなのだ。作家のことを知っている、以前鑑賞したことがあるから何度も作品を見なくてもいいやという訳にはいかない。常に新しい何かがある。そう思わないといけない。
すべてが「※これは個人の感想です」になってしまうのだったら、その先にある「※これは人類の感想です」まで持っていかないと自家中毒で終わってしまいそうだ。
そういうキャラだから。で済ませてしまえば世の中うまくいくかもしれないけれども、キャラ重視になるとそれはそれで壊したくなってしまう……。