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野蛮に現在のテキストを積み重ね

残らなくてもいいから変化を −ゴードン・マッタ=クラーク展、映画『菊とギロチン』−

 なにも残らないのではないかと思う瞬間がある。目の前で繰り広げられているものが通り過ぎていくだけで、数年経ったら誰も覚えていないかもしれない。たとえ作品や書物のデータとして残ったとしても、あの場所、あの時間に留まっていたものなのか? あのときの衝動とかアナーキーさは受け継がれているのだろうか。どこかで、ぐにゃりと曲がっていないだろうか。

 正確さでは残らなくても忘れてしまってもいいけれども、「残らなかったもの」「ぐにゃりとしてしまったもの」に思いを寄せれば、別の変化は起こる。

 ゴードン・マッタ=クラーク展で「残らなかった」作品を前にしたとき、いまここから私は見ているという感覚が強かった。当時の経済やアートについて、キャプション(言葉)で補足することはできるけど、いまこの作品(パフォーマンス)が美術館の外である街やストリートで展開されたとして、どのような意味が出るのか。そう思いながらじっと、映像や写真そしてテキストを眺めていたのだった。さらに、1978年に35歳で夭折したゴードン・マッタ=クラークが、80年代、90年代の世界を見ていたらどうしていたのだろうかという、その後の時代に不在だった(残らなかった)ことに対する、鑑賞者側への投げかけもミックスされているという展示空間の妙。展示会場のコンセプトはにぎやかな場所を演出するという意味での"プレイグラウンド(公園)"だったが、本当は頭の中で思いを縦横無尽に遊ばせる場所としての"プレイグラウンド"じゃなかったのか? 数年後、展覧会自体も「開催されていたね」ということすら薄くなり残らなくなるかもしれない。きっと別の場所や言葉で紡がれてくのだろう。

 残らないということでは映画『菊とギロチン』もそうだ。いまは無い女相撲興行とアナーキスト主義のギロチン社。あの場所あの時代に置かれた人たちの現実は分からない。それでも、思いをはせた想像力で物語として甦ったのだ。映像の厚みに躍動にのめり込んでいき、189分が経った後でもまだこの先を見たいと私は思った。

 人工知能が残らなかったものへ思いを寄せる日もやってくるのだろうか。

 

ゴードン・マッタ=クラーク展
会期 2018年6月19日〜9月17日
会場 東京国立近代美術館

 映画『菊とギロチン』
監督 瀬々敬久
脚本 相澤虎之助・瀬々敬久
出演 木竜麻生、東出昌大、寛一郎、韓英恵ほか

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「ゴードン・マッタ=クラーク展」東京国立近代美術館

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「ゴードン・マッタ=クラーク展」東京国立近代美術館