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野蛮に現在のテキストを積み重ね

消化してたよりなさを吐き出す/目[mé]『非常にはっきりと わからない』展

美術展の場合、作品の鑑賞に加えて、キャプションや作家自身の言葉(展覧会のタイトルも重要な言葉だ)や美術館やギャラリーのもつ独特な空間など複合的な要素を摂取して消化する面白さがある。しかし、そうして消化したものは、自分自身のものしかわからない。周囲にいる見知らぬ人たちだって別の視点や思考で消化しているはずだ。

消化するということは、原形を留めず事実も曖昧になっていき、むしろこれ以上劣化することのない「たよりなさ」がある。たよりない状態のほうが動きやすい。そして各人の「たよりなさ」の種類は微妙に違ってくる。

目[mé]展『非常にはっきりと わからない』は、自分以外の観客がどのように消化しているのかわずかながらに知ることができた展覧会なのではないかと思っている。そもそもタイトルが「非常にはっきりと わからない」なのだ、どうしたって消化したものに対してたよりなさが含まれてしまう。構成上、繰り返し作品を見ていくと見えてくる気づき。それは正しいのか、正しくないのか、それはわからない。でもなんとなく、たよりなく、消化されていく。そして、そのたよりなさの強度を確認したいがために、ついその場で誰かに見せたく(言いたく)なる。

消化したものは栄養になっているのか、自分の血肉になっているのだろうか。ときには消化しただけでそのまま排泄されてしまっているのではないか。消化物のたよりのなさにたよるしかない。だって10年後、20年後、ゆっくりと消化される可能性だってあるからだ。未来の作品とつながり栄養物へと変化することだってある。

今回、あちこちに落ちていた他人の消化物(吐瀉物)を目の前にしたとき、それをも受け入れるかどうかという軽い緊張感。それこそソーシャルなのかもしれない。

 

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収納されているものや展示途中のものなど、まるで作品が消化中のような空間がてんかいされていた。消化途中のものを観客がどうやって(感覚で言葉で)消化するのかが問われているようだった。

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目[mé]展『非常にはっきりと わからない』 
期間 2019年11月2日→12月28日
場所 千葉市美術館

アートの現地集合(フワッとした現地感としての「バンクシー作品らしきネズミの絵」、アウトサイダー)

 現地集合の現地がわからないので集まることができない。そもそも誰も現地を知らなかったらどうしようか、途方に暮れるしかない。でも現地はどこかにあるはずだ。誰も知らなくても、とにかく現地へ向かおう。

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流れだけが残ったので流されていた -「マルセル・デュシャン」と「寅さん」−

流されていた

ブログをアップしていない2ヵ月弱、Netflixで『男はつらいよ』シリーズを毎日1本づつ見続けていたのだった。第1作から『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』までの合計49本を毎日1本、最初は順番に、2往復目はランダム気ままに見ていた。寅さんさくらおいちゃんおばちゃん御前様。世界観はわかっているけれども、物語の太さ加減は時空を超えて居心地がいい。そのまま気づくと、物語の黒潮に流されて、日常生活でもいつの間にか違う場所(意識)に流されていた。どこかに寅さんがいるような、あるいはここは葛飾区柴又なのではという内側に入ってしまったような感覚。

その流れに乗っていいのかどうか、少し躊躇するときもある。流れはどこから来るかわからない。途中で止まる可能性だってある。だから流されるのを恐れて、ぐるぐる同じ所を小さく回っているのが好ましいのかもしれない。

流れに対して、見るか、乗るか、どうするか。それを含めて物語なのだ。

 

流れだけが残る

何回も見たということでは、デュシャンの作品もそうだ。『自転車の車輪』や『泉』は、海外の美術館で何回か鑑賞している。そして2018年、東京国立博物館で開催されていた『マルセル・デュシャンと日本美術』展で作品を見た。
展示はデュシャンの人生(物語)を作品でたどっていく流れになっていた。たくさんの入場者の列の流れに入り込んで、油彩画などの作品を丁寧に見て回る。

こうして美術に対する物語として、源流を知っておいた方がいいのか? それとも知らない方がいいのか? ふと考えながら流されていた。もちろん知っておいた方がいいのかもしれないが、ならば時代(芸術運動の流れや世界情勢)や物語(作品のストーリー? それとも作家の人生の物語?)等どこから知っておいた方がいいのか。

関係なく、現在の2018年という時間点から作品を眺めることだってできる。知識だけでなく自分がそこに居た(見た、聞いた)という自分と作品の距離がどうしたってある。

 

流れの先に淀んでいる(魅力的な)場所が

映画のエンドロールが終わっても。作品を見終わっても、何かは続いている。それは物語ではないかもしれない。あの作品に流れる時間や空間の一瞬が自分に焼きついているだけかもしれない。海水浴帰りのような心地よい疲れがある。

そして寅さんも来年2019年に新作が公開される。

物語が続いていたのだ。

デュシャンの先にも物語は延々続いているのだろう。

まだ物語が発生しない場所にも、明日には物語で覆いつくされる。
それがポジティブであれネガティブであれオカルトであれ科学的であれ、覆われていく。覆ってあふれてたまる。どこかたまってしまい淀んだ場所があるかもしれない。
淀んだエリアがいちばん魅力的な場所だったらどうしようか。

 

マルセル・デュシャンと日本美術
会期 2018年10月2日〜12月9日
会場 東京国立博物館 平成館

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マルセル・デュシャンと日本美術 展(東京国立博物館)

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マルセル・デュシャンと日本美術展(東京国立博物館)

「不明」の持続可能性 −モネ それからの100年展/中原昌也 個展−

 見たままのイメージを超えたい。なぜ「自然」のままではなく、ほんの少し「盛る」のか。肉眼よりもスマホの液晶モニターを通した世界がしっくりくるのはどうしてなのか。現実的というよりも人工的な世界の淡い現実感。解像度としてはっきりするよりぼやけたときに紛れ込む「不明さ」。「いいね」と相手の反応がつくように、「不明さ」の加減を気にすることが多い。

 ほとんどの場合、「不明」を「分かるようにする」ことが大切だと思う。不明な部分はどこなのか原因を突きとめ、誰もが分かるような言葉(例え話)で説明する。美術館のキャプションや音声ガイドなどは分かるように解説するために用意されている。ただ、分かるようにするといってもよくわからなさに近づくだけで、本質そのものではない。別のストーリーに収納されてしまう可能性だってあるが、時間をかけずに理解できるので、多くの人にとっては有効だ。自己啓発関連本やバラエティー番組の分かりやすさと同じだ。

 しかし部分的には「不明」をそのまま受け取ることも意識しなければいけない。よく分からない。私には伝わってないという諦念とともに、でもなにかが宿っているという不気味さ。物語にもならず、音楽にもならず、ただそこにあるということ。浮遊霊のような、あるいは無の境地。「不明」が佇んでいる。
AR、VRで不明なものを表現できるのだろうか?
AIはよくわからなさを分からないままにしておけるのか?

分からせようともせずどうしようもなく佇んでいる作品群。
不明の強度と持続性。分からせようとすると壊れる淡さ。エロスとタナトス。

「不明」に対しての距離というか柔軟さについて
私は「不明」なままでいる作品に魅力を感じるのだった。
どうしようもできない不明に目や耳を預けたい。

そして私も不明なことを振りまきたくなる。
気怠く、浮遊霊のように。
持続可能な不明を目指して。

 

モネ それからの100年
会期 2018年7月14日〜9月24日
会場 横浜美術館

 

中原昌也 個展
会期 2018年8月9日〜8月31日
会場 Sprout Curation

中原昌也|個展 Masaya Nakahara | Solo exhibition – sprout curation

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データは機械に憑依しているのか −書籍『作って動かすALife』、縄文 展−

 機械(PC、スマホ)はどれくらいアタマがいいのか。PCやスマホを使ってすることといえばメールやSNSの対人間どうしのやりとりツール、ほかに原稿を書く、資料をまとめる。ほぼツールとして使っているだけなので、たとえ能力があったとしても、こちらの想像の範囲内での能力しか見えない。使っている側としては機械は紙のノートといった道具の延長でしかない。音声入力や顔認識、AR、AIなど、それなりの技術に驚くことはあるが、それは想像を超えたなにかを提案してくれるのかはこれからだ。
 想像の崖から降りた場所にある魅力。機械にとっての桃源郷はどこにあるのか。ムーアの法則のその先にあるのだろうか。機械の歴史は地球や人類と比べたらまだ始まったばかりで歴史が繰り返すというよりも新たに作られていく段階だ。

 時間軸で考えると、そもそも現在のフォーマット、技術がそのまま続くのかどうも怪しくなる。東京国立博物館で開催されている「縄文」展では土偶や土器、装飾品などが数多く紹介されているが、これらの展示物は約1万年〜3000年前は最先端の技術、道具(機械)でもあったのだ。技術はどこへ向かうのか? 機械はもっとアタマがよくなるのか。その手がかりとなりそうな「ALIFE」に興味がある。

 機械ではなく自立した人工体としての「ALIFE」。そこには技術と合わせて生命としての美学や情報(データ)がある。関係性としての生命。データとしての生命が機械より先に進化してしまうことだって考えられるのだ。データのモードによって組み立てられる人工生命。計算と感情のセッション。解像度ではなく、データがそこにある。存在するデータと付随するノイズの美しさ。
 データは人工生命に憑依しているのだろうか。データもいつかは死ぬ。電気がなければ、対応するフォーマットがなければデータは死ぬ。データの輪廻転生で新しいものを作られるとしたら、その連なりが斑で美しければいいのではないか。

データとしての生命体が進化するときの計算式の向こう側にある美(ALIFE的)。
これから死ぬかもしれない剥き出しのデータとしての残像のような美(ビジュアルと音楽)。

 

  美がいつしか生活風俗(データ民俗学)として定着すれば、夏の盆にディスプレー上の送り火やネットワークへのデータ精霊流し、古いデータが胡瓜ではなくSSDに乗ってやってくるという風習がスタートするかも。

 

書籍『作って動かすALIFE』
著 岡瑞起、池上高志、ドミニク・チェン、青木竜太、丸山典宏
オライリー・ジャパン

縄文ー1万年の美の鼓動
会期 2018年7月3日〜9月2日
会場 東京国立博物館平成館

Ryoji Ikeda concert pieces
開催日時 2018年7月27日〜7月29日(オールナイト)
会場 スパイラルホール